塾のストーリー

2007年2月、私は鏡中学校の校門前に立っていました。

自分で作って印刷した「手作り感満載なチラシ」を手に。
下校する生徒たちに、来月から始める予定の「塾チラシ」を渡します。

受け取ってくれる子もいれば、受け取ってくれない子もいます。
受け取ってくれたけど、その後チラシを捨てる子もいます。

その日は学期末テストの日で、たまたま登校していた不登校生A君がその数日後、塾の最初の生徒になってくれました。

ただし、A君が塾に来るのではなく、私が家庭教師としてA君の家に行く。
それがOishi塾の始まりでした。


A君のお母さんはとても社交的な人でした。

いろいろな人に私のことを紹介してくれ、数ヵ月もすると、A君の家で塾を開いている状態になります(笑)

また知人の伝手を頼り、紹介者が別の人を紹介してくれ、その人がまた別の人を紹介してくれ、4月からは念願の「塾」を開けるようになりました。

ただし、お金が無かったので、鏡中の近くの公民館で週2回。
坊主町の寺の講堂を週2回貸してもらい、本格的な?塾のスタートです。

経験も実績も指導ノウハウも、何もない自分に任せてくれるー
必ず全員合格させる。
この頃は、ただただ燃えていました(笑)


燃える時間は、あっという間に過ぎていきます。
佐賀北が甲子園で優勝した夏休み。
特別暑かった夏。
私は土曜も日曜もなく、朝も晩もなく、少しずつ増えていく生徒と過ごしていました。

夏休みが終わり、実力テスト、中間テスト。
成績が上がったり、下がったり。
喜んだり、へこんだり。

実力テスト、唐津くんち、期末テスト。
木枯らしが吹く季節、
初めての受験に不安になる生徒たち。
何としても、全員合格させる!


年が明け、2月になり、私たちの最初の受験を迎えます。

うつ病で不登校だったA君は、学校に毎日通うようになり、敬徳高校の特進科!に合格しました。



その調子で、志望校にー

「奇跡のようなことが起きている」と、周りの人は思ったそうです。
私はただ目の前のことに必死でした(笑)

3月になり、A君の第一志望である唐津南高校の受験を迎えました。
結果は一週間後。

初めて経験する、生徒の合格発表を待つ時間。

ただ祈ることしかできない時間。

それでも、塾は続きます。
受験を終えて、塾に来なくなった3年生を懐かしみながら。

新しい年度が始まることに、わくわくしながら。


合格発表の日。

A君の結果は、不合格でした。
そのメールを見た時、私は空を仰ぎ、A君の家に車を走らせました。

玄関には、涙で目を腫らしたお母さんが。
その奥には、下を向きながら泣いているA君が。

車でどこか分からない道を走りながら、助手席のA君は言います。
「先生・・おいのせいで・・すみません・・・」
私は耳を疑いました。

志望校に行けない悔しさや悲しさは、当然あったでしょう。
合格するために必死で勉強してきたのですから。

しかし、その時A君の口から出た言葉は、
自分のせいで「全員合格」がなくなった・・・。

私のことを慮って泣いていたのです。


この頃の私は厳しいことを言うのは苦手でしたが、意を決して言いました。

「A君、男がいつまでもメソメソしたらいかんわ。
そんなに泣いたらお母さんが心配するやろ?

全力でやって落ちたんやからしょうがない。
あんまりお母さんを心配させるな。
友達にも心配させんように、落ちた~って明るく言っとけ。
泣きたかったら一人で泣け。
一人で寂しかったら、チップ(犬)と泣け。
俺はA君を誇りに思う」


私が会うまでのA君の家の事情は知りませんが、うつ病の子供を育てるというのは、家族にしか分からない苦しみが当然あったのでしょう。

「先生は命の恩人です」
過分な言葉だということは百も承知していますが、初めて経験した塾での受験指導という体験に、「なんて仕事だ・・・」と意識が宇宙空間にまで飛んでいきました(笑)

A君が高校3年生の時、おじいちゃんが亡くなりました。
大勢の会葬者の前で弔辞を読み始めるA君。
「大丈夫か!?」と不安な気持ちでそれを見守る、かつてのA君をよく知る人々。

堂々と弔辞を読み終えたA君は、最後におじいちゃんに語りかけました。
「僕はじいちゃんを誇りに思います」

 

これがこの塾の「原体験」で、ここから私たちの物語が始まります。

(続く)