前回「倚(よ)りかからず」で、「自分で自分を支える」人間に育てる第一歩として「腰骨を立てる」ことについて書きました。
現代は、甘やかしの「頂点」のような時代です。
しかし「腰骨を立てる」一点に絞って躾をすれば、何かに「もたれる」ことを恥と感じる「自立した人間」を育てられるということです。
倚りかかる人間は、必ず「親不幸をする」と言われていますから、現代で特に「必要な躾」ではないでしょうか。
今回の主題は、「させられる人間」と「する人間」です。
世界最高の文豪と呼ばれるロシアのフョードル・ドストエフスキーは、「死の家の記録」という自身のシベリア流刑体験を基にした作品を遺しています。
その「死の家の記録」において、ドストエフスキーは次のようなことを書いています。
強制労働が苦役なのは、それがムチの下の強制だからである
つまり、囚人の労働自体は当時のロシア農民と比べても「楽」であり、労働時間も「短い」。
しかし、その「労働」が犯罪者に対して「苦役」であり得るのは、それが「足枷をはめられムチで強制された労働」だからであると、ドストエフスキーは自身の牢獄での観察を基に書いています。
私がこの文学を読んで思ったことは、「これは150年以上前の話ではない。オムスク要塞監獄だけの話ではない」ということでした。
現代の日本で、私たちの周りにも、これらの不幸な囚人たちは数多く存在しているのではないでしょうか。
もし自分の仕事を「強制された労働」と思えば、シベリアの監獄に入らなくても、囚人たちと同じ「苦役という罰」を「精神的に」受けていることになります。
自由に育てられている子供も、勉強を「強制されるもの」と思えば、その時間は「苦役をさせられる囚人」です。
そういった子供にとって、塾は「監獄」で、受験勉強などは足枷をはめられた「強制労働」以外の何ものでもないでしょう。
現代最高の著述家(と私が思う) 執行草舟氏は、「生くる」において次のように述べています。
自分から進んで何かをする人間は美しく、させられる人間は無様となる
その例として執行氏は、武士と百姓の土下座の違いを挙げています。
つまり、自ら行う武士の土下座に「気高さ」が漂うのに対し、無理やりさせられる百姓の土下座は「惨めそのもの」だと、誰もが感じるのではないでしょうか。
「させられる人間」は無様で格好悪く、「する人間」は気高く格好良い。
「させられる人間」とは、自立性のない惨めな「倚りかかる人間」だと言えるでしょう。
「する人間」とは、自分で自分を支える美しい「腰骨を立てる」人間の別名なのです。