基本的な質問ですが、甘やかしって何ですか?

質問:
基本的な質問ですが、甘やかしって何ですか?

回答
幼児期より上の子供にも、「子供中心主義」で育てることです。

「子供中心主義」とは、子育ての正しさの基準が親や先生ではなく、子供にあるという考えです。

今の時代は「絶対者である子供に親は寄り添う(合わせる)のが正しい」という風潮になっています。

確かに乳児期の赤ちゃんに「子供中心」「子供優先」で育てても、甘やかしとは言いません。
なぜなら乳児期の子供にとって、それが「必要なこと」だからです。

しかし児童期の子供に「子供中心」「子供優先」で育てると、「甘やかし」となります。

なぜなら、「何でも子供の代わりにやってあげる」「いつも子供の言うことを聞いてあげる」必要性のある時期は過ぎたからです。

児童期の子供に必要な関わり方は、甘やかしではなく、自立させることです。

親御さんが子供の身の回りの世話をするのではなく、自分のことは自分でできるように、子供にやり方を教える時期です。

また良い生活習慣社会常識を身につけさせるのも、この時期の親の最も大切な役目です

最近増えてきた親御さんの特徴

子供の「自主性」に任せて何も教えない親御さんが増えてきたので、社会常識のある人間からすれば、不快な言動をとる子供が増えています。

また何でも子供の気持ちに寄り添うことで、子供が「好き嫌いの感情」でしか動けない人間に育っています。

つまり乳児期では良いとされる「甘やかし」も、児童期になって続けたら、子供をダメにしたり、周囲の人を不愉快にする「悪いもの」となってしまいます。

ここが子育ての最も難しいところですが

子供に何も教えず子供に尽くす親御さんは、乳児期までは良くても、幼児期~児童期からは「ダメ親」となります。

時代の風潮は「放任するのが良い親」ですし、子供も「今、自由で楽にさせてくれる親」の方がいいので、時代や子供に合わせたら間違います。

児童期の親の優しさとは、子離れをし、子供の将来のために自立させることなのです。

 

【人間の教育】 ~教育崩壊時代の実践教育論~

4月26日に「人間の教育」が発売されます。

このホームページを読んで下さっている方には分かると思いますが、「時代の風潮」と真っ向から対立する本です (^^)/

「現代の風潮」と「人間の教育」を弁証法的に掛け合わせたら、次の時代の教育である「自律教育」へと向かえると思います。

自由と優しさ一辺倒の「甘やかし」を「甘やかし」とも思わない教育、「崩壊」を「崩壊」とも思わない教育現場は、もはやどうすることもできません。

躾が「悪」とされ、礼儀が「悪」とされ、親と子、先生と生徒の上下関係が「悪」とされ、子供の獣性を個性として認めることが「善」とされる狂った時代です。

この狂った時代に、たった一人で、「人間の教育」をするための考え方と方法論を書きました。


時代は「子供の自主性に任せることが良い教育だ」という風潮ですが、そのことは私も否定しません。

しかし「子供が他に頼らず、自分で考え行動すること」は、守破離で言えば、破や離に当たります。

本書は、その破や離の先に来なければならない「守」について書きました。

「アクティブラーニング」や「イエナプラン」といった方法論を支える「根」の部分について、人間の教育の「土台」について書きました。

オンデマンド方式という出版の性質上、値段が若干高めになっていますが、誰も書いていない内容で、「値段以上の価値」はあると思います! 

Amazonや全国の書店で注文して頂けます。
ISBN:978-4815026097



 

逃れられない運命に苦悩すること ~ウインドトーカーズ~

唐津市和多田にある Oishi塾のホームページへようこそ \(^^)/

「映画で教育を語る」の第7弾です。

2002年製作の「ウインドトーカーズ」は、サイパン攻防戦を舞台に、「任務」と「友情」の狭間に苦悩するアメリカ海兵隊員を描いた戦争映画です。

興行的には大失敗をし、米軍(善玉)VS日本軍(悪玉)という単細胞的な構図に、日本人として観ていて不愉快になる場面もありました。

しかし民族の違いを越えて、現代の私たちが失った「人間的であること」がよく描かれている映画です。

平和な現代の私たちが「人間的」ではなくなり、戦争映画の主人公が人間的だというのは、文明の逆説でしょうか。


太平洋戦争末期、アメリカ海軍は先住民ナバホ族の言語を基に軍の「暗号」を作成します。

主人公のエンダーズ伍長の任務は、ナバホ族である通信兵を護衛すること。
そして、もしその通信兵が敵側の捕虜になりそうな時は、暗号の漏洩を防ぐため、彼を殺すことー。

海軍にとって大切なのは、ナバホ族の命などよりも、戦争に勝つために暗号を守ることでした。

海兵隊員であるエンダーズ伍長にとって、命令は絶対服従すべき「神」のようなものです。

役目を果たそうとすれば友を裏切り、友を殺さず暗号が敵側に漏れれば、大勢の仲間の命が危険に晒される。

任務を全うしなければならない。
友を裏切ることなどできない。

この「逃れられない運命」と、エンダーズは真正面から向き合い、懊悩し続けます。

しかし、その「逃れられない運命」と向き合っているのは、現代を生きる私たちもそうなのでしょう。

それがこの映画のテーマなのだと思います。


「子供を甘やかしてしまう」
親ならば当然だと思います。

「親の役目を果たさないといけない」
こう考えるのも親ならば当然です。

人間の親の役目は、子供に「衣食住」を与えることだけではありません。

子供を「甘やかそうとする心」と子供の「甘えを取り除こうとする心」
「優しさ」と「厳しさ」
「許し」と「叱り」

その狭間で葛藤するのが、「人間的な親(先生)」なのではないでしょうか。


子供のために「苦悩する」のが人間的な親です。
子供のために苦悩したことがないなら、その親は人間的ではありません。

現代の私たちは、何でも許す優しさを人間的だと思っています。
許さずに叱る人間、きちんと謝らせる人間は「非人間的」だと。

そういえば、「すみません」という言葉は、ほとんど教育現場から失われました。

躾と称した虐待を行う親は、非人間的です。
それと同様に、「愛」という名で甘やかし放題の親も、やはり「非人間的」なのではないでしょうか。

子供のやりたいようにさせるだけなら、苦悩などありません。
苦悩のない人間は「愛」がないのです。

今まで教育を支えてきたのは、「逃れられない運命」に苦悩する「人間的な」親や先生たちでした。

その苦悩や葛藤を回避しようとすることで、愛も失われ、教育は崩壊寸前です。

新しい時代の教育を担うのは、子供を甘やかさず、「苦悩」し続けられる親や先生たちなのです。

「させられる人間」と「する人間」

前回「倚(よ)りかからず」で、「自分で自分を支える」人間に育てる第一歩として「腰骨を立てる」ことについて書きました。

現代は、甘やかしの「頂点」のような時代です。

しかし「腰骨を立てる」一点に絞って躾をすれば、何かに「もたれる」ことを恥と感じる「自立した人間」を育てられるということです。

倚りかかる人間は、必ず「親不幸をする」と言われていますから、現代で特に「必要な躾」ではないでしょうか。

今回の主題は、「させられる人間」と「する人間」です。


世界最高の文豪と呼ばれるロシアのフョードル・ドストエフスキーは、「死の家の記録」という自身のシベリア流刑体験を基にした作品を遺しています。

その「死の家の記録」において、ドストエフスキーは次のようなことを書いています。

 

強制労働が苦役なのは、それがムチの下の強制だからである


つまり、囚人の労働自体は当時のロシア農民と比べても「楽」であり、労働時間も「短い」。

しかし、その「労働」が犯罪者に対して「苦役」であり得るのは、それが「足枷をはめられムチで強制された労働」だからであると、ドストエフスキーは自身の牢獄での観察を基に書いています。

私がこの文学を読んで思ったことは、「これは150年以上前の話ではない。オムスク要塞監獄だけの話ではない」ということでした。

現代の日本で、私たちの周りにも、これらの不幸な囚人たちは数多く存在しているのではないでしょうか。


もし自分の仕事を「強制された労働」と思えば、シベリアの監獄に入らなくても、囚人たちと同じ「苦役という罰」を「精神的に」受けていることになります。

自由に育てられている子供も、勉強を「強制されるもの」と思えば、その時間は「苦役をさせられる囚人」です。

そういった子供にとって、塾は「監獄」で、受験勉強などは足枷をはめられた「強制労働」以外の何ものでもないでしょう。


現代最高の著述家(と私が思う) 執行草舟氏は、「生くる」において次のように述べています。

 

自分から進んで何かをする人間は美しく、させられる人間は無様となる


その例として執行氏は、武士と百姓の土下座の違いを挙げています。

つまり、自ら行う武士の土下座に「気高さ」が漂うのに対し、無理やりさせられる百姓の土下座は「惨めそのもの」だと、誰もが感じるのではないでしょうか。

「させられる人間」は無様で格好悪く、「する人間」は気高く格好良い。

「させられる人間」とは、自立性のない惨めな「倚りかかる人間」だと言えるでしょう。

「する人間」とは、自分で自分を支える美しい「腰骨を立てる」人間の別名なのです。

大人社会と子供社会のギャップ(下)

「若い先生たちへ」「家庭の躾」の第9弾です。

前回、大人社会の原理は「役目を果たすこと」だと書きました。

「他者貢献」の大人社会を、私たちは「役目を果たすこと」で「一人前」として生きています。

「嫌な役目だからやりたくない」と駄々をこねる人間、「面倒な役目だから適当に済ませよう」とする人間は、子供社会では通じても、大人社会では生きていけません。

それが「大人社会」の厳しさですが、一方、「子供社会」にはどのような原理があるのでしょうか。


今の子供社会は「自分の役目なんか考えなくていい。やりたいことをやりたいようにやればいい」という原理で動いているように見えます。

家庭も、学校もです。

子供には、子供や学生としての「役目」も当然ありますが、「役目を果たしてから(やることをやってから)やりたいことをやれ!」などと言う、うるさい(普通の)親や先生は絶滅しました。

つまり、大人社会の原理である「役目を果たす」ことを子供に求める「厳しい教育者」がいなくなったのです。

そして、子供社会でしか通用しない「嫌なことはしなくていいよ。やりたいことだけやっていればいいよ」という「優しいサービスマン」だらけの社会になりました。


「大人社会」と「子供社会」で原理が違うのは当然です。

しかし、あまりにもそのギャップ(差)が大きいと、子供が社会人として一歩を踏み出した時、とんでもなく苦労をすることになります。

今まで「苦しいこと」はせず、「適当に済ませて」も何も言われず生きてきた人間が、突然「嫌な仕事でも自分の役目は果たせ」「頑張ったとか、どうでもいいから、結果を出せ」と言われるのです。

社会はだいぶ緩んできたとはいえ、まだ一定水準の「役目を果たす」ことへの厳しさを保っています。

しかし、子供社会は「自由にのびのび」の名の下に、これ以上はないというくらい「甘やかし」が浸透しました。

社会に適応できない若者の「激増」が社会問題にもなっていますが、そんなものは私に言わせれば、「甘やかされて育てられた人間」当然の末期です。

可哀そうですが、「育ちが悪かった」と言うしかありません。

「甘やかし」は、コロナなどよりも遥かに強烈なを子供に与える「ウイルス」だと、私は思います。

時代の緩んだ風潮から、子供を守れるのは、親や先生しかいません。

守るべきものは、「今」の安楽ではなく、子供の「将来」です。