「若い先生たちへ」の第5弾です。
7都府県に「緊急事態宣言」が発令されましが、コロナウイルスの猛威はとどまるところを知りません。
ヒューマニズムから生まれた「善人思想」がコロナ危機を加速させていますが、今後、医療崩壊、経済崩壊なども不安視されています。
そして、「教育崩壊」はコロナ危機のずっと前から進行中であり、既に崩壊の末期です。
崩壊の過程にいる我々は、周りも全部そうなので「おかしい」と思いませんが、一昔前の人間が今の教育現場を見たら間違いなく卒倒します。
前回に引き続き、今回の主題も「善人と悪人」についてです。
「悪人でなければ教育はできない」「我々は悪人にならなければならない」ということを伝えたくて、この文章を書きます。
三島由紀夫は、その絶筆となった「豊饒の海」という四部作を書き遺しています。
その登場人物として「嫌な奴」や「変な奴」ばかりが出てきて、「悪人の文学」とも呼べそうですが、その「嫌な変な奴」が我々自身です。
その悪人は、我々です。
しかし、善人はそう思いません。
遠くから、他人事のように、その登場人物を眺めています。
日本最高の文学者の一人である三島由紀夫は、我々などが想像もつかないほど、感受性が豊かな人間であったと推察できます。
それは、自分の中の「悪」に対してもです。
我々は、神や仏ではないのだから「悪」に決まっています。
悪人は自分の悪を自覚している人間であり、善人は自分の悪に対して「鈍感」な人間と言えるのではないでしょうか。
「歎異抄」は、浄土真宗の開祖である親鸞の教えを、弟子の唯円が纏(まと)めたものです。
その第三条の冒頭に、有名な次の一節があります。
善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや
善人でさえ往生(極楽に生まれること)できる
悪人なら尚更である
善人とは自分が何者かさえ分かっていない「馬鹿者」のことで、
弁えのない人間とも言えます。
そのようなことが、日本で最も読み継がれてきた仏教書である「歎異抄」に書かれているのです。
親鸞は「南無阿弥陀仏」を唱えれば、善でも悪でも往生できると言いますが、そんなことはどうだっていいのです。
極楽へ行こうが地獄に堕ちようが、我々は「自分の務めを果たす」だけです。
悪人になり、子どもを甘やかさずしっかり育て、堂々と地獄に堕ちる。
一億総甘やかしの時代に、「甘やかさずに育てる」ことは、至難のわざかもしれません。
時代の風潮に逆らって生きるとは、逆風が吹き荒れる「茨の道」を歩むことです。
仲間もいない、助けもない、誰にも認められない。
綺麗な花が咲く天国ではなく、地獄を往くのです。
中世イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリは、「神曲」の地獄篇 第三歌に次の言葉を遺しています。
地獄には地獄の名誉がある
天国や極楽にいては、決して果たせぬ仕事をするのです。
周りの善人など、どうでもよい。
自分に与えられた地獄で、たった1人で、務めを果たす。
それが地獄に生きる悪人の名誉なのです。