若い先生に向けた内容の第4弾です。
今年の高校入試が終わりましたが、受験では、「合格者」と「不合格者」が出ます。
その不合格者に対して、私たちは「愛情」を持った「教育的」な関わり方をしているでしょうか。
今回は合格発表後の「不合格者への関わり方」をテーマに、現代の教育の問題点を考えたいと思います。
現代の風潮は、私たちに次のことを要求します。
私たちは、不合格だった子どもの気持ちを慮り、頑張ったことを労(ねぎら)わないと「いけない」
傷ついている子どもの心を察して、その傷口が広がらないように、できるだけ優しく接しないと「いけない」
「いけない」と2度繰り返しましたが、文字通り、時代の空気は「MUST=そうしないといけない」です。
その空気に従順なのが「善人」であり、現代流の「良い親」「良い先生」です。
そして、そういった善人たちが、子どもに「悪」を為します。
もちろん、本人たちにそんな「つもり」は毛頭ないでしょうが、結果的には、子どもの体内に蓄積する「甘い毒」となります。
多くの生徒が合格した中で、不合格だったということは、その生徒自身が「甘ったれ」だったのです。
不合格の原因は、「能力の不足」ではありません。
「能力の不足」なら、最初の志望校選びが間違っていたことになります。
そうでは、ないのです。
不合格だった生徒は、合格した生徒よりも、何か足りないものがあり、それを補う努力が欠けていたのです。
つまり「やるべきこと」をやっておらず、「合格するための必死さ」に欠けていたということです。
要するに、その生徒は望みだけが高く、自分に厳しくできない「甘ったれ」だったのです。
挫折こそ、成長の最大の好機です。
私たちの務めは、受験に失敗した子どもに「甘くて弱い自分」を「直視」させることです。
泣こうが、傷つこうが、その情けない姿が「裸の自分自身」です。
見たくないものを、直視させるのです。
彼らに必要なのは、優しい慰めの言葉ではなく、「現実と真正面から向き合わせる」厳しい愛の言葉です。
その厳しさこそが、「教育」ではないでしょうか。
今こんなことを書けば、悪人です。
だから、他者の評価を気にする「善人」には、口が裂けても言えません。
しかし、私もすべての生徒に、これらのことを言えるわけではありません。
愛していない生徒には、言えません。
厳しいことを伝えるには、膨大なエネルギーを必要とします。
甘い言葉の何十倍ものエネルギーが要るのです。
その「面倒なこと」を乗り越える力が愛情ですが、「そこまで言わなくていいか」という悪魔の囁きに負けることがあります。
そんな私が「真実だ」と100%確信していることがあります。
我々が「愛」だと思っている「厳しさのない優しさ」は、悪魔が吐き出す甘い毒です。
その毒を吸い過ぎた子どもは、一生甘ったれから抜け出すことはできません。
子どもを「弱い甘ったれ」のままにしておく「現代の教育の正体」に、そろそろ私たちも気づくべきではないでしょうか。