前回「躾は厳しく!~厳しさの誤解を解く~」で、躾はヒトを人にするための 親の「普通」の務め だということを書きました。
「ヒトを人に」という言葉は、私が考えたものではなく、陽明学の世界的権威であった岡田武彦が著書のタイトルに付けた言葉です。
現代の先生や親の多くは、「良い先生」「良い親」になろうとして、逆に「ダメな先生」「ダメな親」になってしまっていると感じます。
私たちは「良い先生」「良い親」になど、なろうとしては「いけない」のではないでしょうか。
「子供の将来」のために、私たちはただ「普通の先生」「普通の親」でありさえすればいいというのが、今回の主題です。
「普通」の先生や親とは、歴史的に受け継がれてきた「普通」の原理原則を持つ親(先生)です。
つまり、良いものは良い、悪いものは悪い、ダメなものはダメだとハッキリと言える親です。
「今苦しくても、それを乗り越えて成長させる」という長期的な視点を持つ人間が、「普通」の親なのだと思います。
一方、「良い先生」「良い親」になろうとすると、どうなるでしょうか。
「良い親(先生)」かどうかを評価するのは子供ですから、「良い親」であるためには、当然子供に気に入られなければなりません。
そのために「子供中心」で教育が動いていき、(教育上良くないことでも)子供がしたかったらさせる、(乗り越える必要があることでも)嫌だと言ったらやらなくてよい。
子供の顔色を気にして、言うべきことさえ言えない。
子供のやることにはなるべく口を出さず(普通の躾すらせず)、「自由にのびのび(自分勝手に)」育てばいい。
そこには、親としての「原理原則」など、どこにもありません。
これは「教育」などと言うものではなく、単なる「放任」ですが、現代では「放任する親=良い親」だと言われているのですから、「教育崩壊」も最終局面です。
「普通」の親は、自分は嫌われても「子供の将来」に必要だと信じたことをやります。
躾はその代表的なもので、「子供が将来困らないように」、だから「今は厳しいことも言う」というのが、本来の「親の愛情」のはずです。
しかし、「良い親(になりたがっている親)」は、今子供が嫌がることをさせたら「良い親」ではなくなるから、嫌なことはさせられません。
それが現代流の「良い親」の正体であり、時代が変われば新しいモンスター・ペアレンツだと言われるのではないでしょうか。