前回「教育か、サービス業か」で、世の中に「教育者」がいなくなった現状を書きました。
つまり、「教育者」と一般に言われている人でも、その実体は「サービスマン」である場合がほとんどであり、子供に「サービス」する人はいても、「教育」する人がいなくなったように思います。
「教育崩壊」は、決して子供の責任ではありません。
それを支えるはずの教育者(親)が「総サービスマン化」した結果もたらされた、大人による「人災」です。
では、なぜ私たちは「サービスマン」ではなく、「教育者」でなければならないのでしょうか。
なぜ子供に「合わせる」だけの人間ではなく、子供を「高みに引き上げる」人間でなければならないのでしょうか。
今回の主題は、「大人社会」と「子供社会」のギャップです。
教育の歴史を眺めてみると、「甘い」子供社会の基準を、「厳しい」大人社会の基準に少しでも近づけようとする試みが、「現代以外」の教育史の大きな流れだったように思います。
そこに働いていた心は、「いかに子供を今の状態から引き上げるか」でした。
つまり「将来、子供が大人社会の基準に戸惑わないように」です。
だからこそ、「自分の役目を果たさせる」「苦しいことも乗り越えて成長させる」のが、親や先生の「務め」だと考えられてきました。
しかし現代では、親も先生も「今」しか見えなくなっています。
その心は「今子供に嫌なことをさせたら」「今子供に厳しいことを言ったら」、「可哀そう」です。
だから、「今、嫌なことはさせない」「今、厳しいことは言わない」のが、現代流の「良い親」「良い先生」の条件となっています。
動物は「将来」のことなど考えられず、「今」を生きるだけです。
人間は「将来」のことも考えられるはずですが、もしかしたら現代の私たちの魂は、科学技術の発展と反比例するように、「動物化」しているのかもしれません。
今回の主題は、「大人社会」と「子供社会」のギャップですが、その2つの社会の構造は全く違います。
大人社会は、「他者貢献」がその構造の原理となっています。
つまり、仕事を通して「自分の役目」を果たすことが求められ、役目を果たすことによって、自ずと他者貢献となり、報酬を貰う。
それが社会の構造です。
「こんな役目は嫌だからやりたくない!」「疲れたから今日の役目は休みます!」などの子供の論理は、大人社会では通用しません。
大人社会では通用しない「子供の論理」を「可哀そうだから」と、いい年をした人間にいつまでも許す親や先生は、時代の風潮が示す通り、本当に「良い親」「良い先生」なのでしょうか。
(続く)