礼節を知る ~本末転倒の時代に~

教育において「最も大切」で「最も軽んじられている」ことについて書きたいと思います。

礼節は、先人が我々子孫に遺してくれた「幸福論」です。

様々な人達との複雑な人間関係を「気持ちの良いもの」にしてくれる「型」で、時代を超えて受け継がれてきた「先人からの贈り物」です。

実学という点でいえば、これ以上の実学はありません。

また教育の本末でいえば、礼節を中心とした躾(しつけ)が「本」で、知識や技術は「末」です。


現代は「本末転倒の時代」ではないでしょうか。

知識や技術教育ばかりが云々され、「躾」について語ることはタブーに近いです。

礼節を軽んじる人間が「善人」とされ、礼節を重んじる人間は「悪人」扱いです。

しかし「時代の風」がどう吹こうが、私は受け継がれてきた「歴史」を信じます。

そして、塾で学習することを通して「礼節を知る」人間に育てることが、私の立場でできる最大の貢献の一つだと思っています。

 

悪人の名誉

「若い先生たちへ」の第5弾です。

7都府県に「緊急事態宣言」が発令されましが、コロナウイルスの猛威はとどまるところを知りません。

ヒューマニズムから生まれた「善人思想」がコロナ危機を加速させていますが、今後、医療崩壊、経済崩壊なども不安視されています。

そして、「教育崩壊」はコロナ危機のずっと前から進行中であり、既に崩壊の末期です。

崩壊の過程にいる我々は、周りも全部そうなので「おかしい」と思いませんが、一昔前の人間が今の教育現場を見たら間違いなく卒倒します。

前回に引き続き、今回の主題も「善人と悪人」についてです。
「悪人でなければ教育はできない」「我々は悪人にならなければならない」ということを伝えたくて、この文章を書きます。


三島由紀夫は、その絶筆となった「豊饒の海」という四部作を書き遺しています。

その登場人物として「嫌な奴」や「変な奴」ばかりが出てきて、「悪人の文学」とも呼べそうですが、その「嫌な変な奴」が我々自身です。

その悪人は、我々です。
しかし、善人はそう思いません。
遠くから、他人事のように、その登場人物を眺めています。

日本最高の文学者の一人である三島由紀夫は、我々などが想像もつかないほど、感受性が豊かな人間であったと推察できます。

それは、自分の中の「悪」に対してもです。
我々は、神や仏ではないのだから「悪」に決まっています。

悪人は自分の悪を自覚している人間であり、善人は自分の悪に対して「鈍感」な人間と言えるのではないでしょうか。


「歎異抄」は、浄土真宗の開祖である親鸞の教えを、弟子の唯円が纏(まと)めたものです。

その第三条の冒頭に、有名な次の一節があります。

 

善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや


善人でさえ往生(極楽に生まれること)できる

悪人なら尚更である

 

善人とは自分が何者かさえ分かっていない「馬鹿者」のことで、
弁えのない人間とも言えます。

そのようなことが、日本で最も読み継がれてきた仏教書である「歎異抄」に書かれているのです。


親鸞は「南無阿弥陀仏」を唱えれば、善でも悪でも往生できると言いますが、そんなことはどうだっていいのです。

極楽へ行こうが地獄に堕ちようが、我々は「自分の務めを果たす」だけです。

悪人になり、子どもを甘やかさずしっかり育て、堂々と地獄に堕ちる。

一億総甘やかしの時代に、「甘やかさずに育てる」ことは、至難のわざかもしれません。

時代の風潮に逆らって生きるとは、逆風が吹き荒れる「茨の道」を歩むことです。

仲間もいない、助けもない、誰にも認められない。

綺麗な花が咲く天国ではなく、地獄を往くのです。


中世イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリは、「神曲」の地獄篇 第三歌に次の言葉を遺しています。

 

地獄には地獄の名誉がある

 

天国や極楽にいては、決して果たせぬ仕事をするのです。
周りの善人など、どうでもよい。

自分に与えられた地獄で、たった1人で、務めを果たす。

それが地獄に生きる悪人の名誉なのです。