「自由」と「自分勝手」の違い

家庭の躾」の第1弾で、「挨拶」と「礼儀」についてです。

生徒に渡した塾通信には、それぞれの「原則」と「手順」を詳しく説明していますが、ここでは部分のみ掲載します。

保護者の方も、「紙の塾通信」の方に、目を通しておいてください!


今回の内容は、生徒が教室で弁(わきま)えるべき「礼儀」や「挨拶」についてです。

これは本来 塾の仕事ではなく、小学生までに家庭や学校で「躾」として、子どもに身につけさせておくべき事柄です。

しかし時代の変化によって、塾もその役割を「担わなければならない」ようになってきました。


世の中には「自由にして良いこと」「自由に振る舞っては駄目なこと」があります。

それが「自由」と「自分勝手」の違いで、その「違いを体得させる」ことが「躾」の根本でした。

また、「自由に振る舞っては駄目なこと」は、「自分の立場にふさわしい言動」をとることが求められます。

その中心にあるのが「礼儀作法」です。


江戸時代の日本では、寺子屋教育で「実学」が重んじられていたことが、よく知られています。

実学とは、実生活に役立つ教育のことです。

その実学を重んじる寺子屋教育で「読み」「書き」「そろばん」以上に大切にされたのが、「礼儀作法」を中心とする「躾」でした。

なぜでしょうか?


「挨拶」や「礼儀」は、人間関係を「円滑」にするために受け継がれてきた、「先人の知恵」です。

算数の基礎が九九の暗唱であるように、人間関係の基礎が「正しい礼儀を身につける」ことだと考えられてきました。

だからこそ、昔の親や寺子屋の師匠は、「将来子どもが困らないように」と、厳しく「礼儀作法」を教え込んだのです。

「挨拶」や「礼儀」を正しく行うことで、人間関係の摩擦が減り、ストレスを減らします。余計な誤解を防ぎます。

自分の経験で言えば「きちんとした挨拶のできない生徒」「礼儀のなっていない生徒」は可愛くありません

部下や後輩も、同様です。

逆に、「礼儀正しい生徒」は性格に関係なく、全員可愛いです


この塾通信では、「目下」は「目上」に「どう振る舞うべきか」ということが書かれています。

自分勝手が許されない「礼儀」や「挨拶」について、その手順を詳しく説明します。

今回は、「挨拶」と「返事」についてです。
まずは、これらを身につけましょう。

 

野蛮で高貴な教育者 ~コーチ・カーター~

「映画で教育を語る」の第4弾です。

2004年製作の「コーチ・カーター」は、荒廃した高校バスケットボール部の 実話を基にした スポーツ映画で、その「立て直し」と、部員達の「生まれ変わり」の過程を描いています。

私が知る限り、今後の日本の教育界に最も必要な映画の一つです。

この映画で語られている内容は、我々が「アメリカ的」だと思っている「自由で、緩くて、フレンドリー」な、アメリカ教育ではありません。

日本が追従している、そのような教育の結果が、現在の荒廃した教育現場です。

カーターは、現代の我々が「悪」だと思っている「規律」や「厳格さ」をもって、その荒廃に立ち向かいます。


カルフォルニア州のリッチモンド高校は、アメリカの「負」の部分を象徴するような、貧しく荒れた町にあります。

数字でその荒廃ぶりを示すと、アメリカの高校ランキングで10段階中最下位の1ランク。高校卒業率は50%。大学進学はクラスに1人。刑務所行きは、その何十倍か分かりません。

新任のバスケットボール部 コーチ(監督) カーターは、崩壊している現場の「立て直し」にかかります。

その手順は日本にも適用できますが、日本で流行の「コーチング」や最先端の「心理学」などを駆使したやり方ではありません。

暴力こそありませんが、現代の日本人が最も嫌う「野蛮」で「時代遅れ」で「非科学的」と言われている手法です。

今の日本の潮流とは「真逆」のやり方で、カーターは全米最低ランクの高校バスケ部を立て直し、生徒たちの魂を目覚めさせました。

アメリカでさえ「崩壊」から立て直すには、「自由」は役に立たず、「規律」が必要だったのです。

アメリカの後追いをしている我々は、いつまで「自由」ばかり追い続けるのでしょうか。


日本の教育に今、必要なのは「自由」ではなく「規律」です。

あらゆることが「自由」で「許される」ようになり、教育は崩れ出したのです。

崩れたものを立て直すには、「規律」しかありません。
「緩んだ」
手綱は「締め直す」のが、物の道理です。

しかし、この国の流れは、更に「緩める」方向にあります。
厳しく叱ってやらねば、救われない生徒は大勢いるというのに。


カーターの「厳格」なやり方は同僚や保護者から猛反発を食らい、学校裁判所のような場所で、吊し上げを食らいます。

カーターが憎んでいたのは、半分の生徒しか卒業できない「学校のシステム」でした。

犯罪者予備軍を育てているかのような、「自由の名の下」の放任主義でした。

「バスケの勝利が生徒の人生のハイライトだ」という親や教員の思い込みでした。

「このような流れを変えたくて、私はコーチを引き受けた。
それには今のようなやり方しかない!」

 

アメリカ好きの教育関係者の方には、「心理学」や「科学的」なものばかりでなく、「コーチカーター」のような野蛮で高貴な教育者の映画も、ぜひ観てほしいと思います。

 

善人の良心を否定できるか ~2012~

新企画の「映画で教育を語る」の第3弾です。

2009年製作の「2012」は、地殻の変動が引き起こす大災害によって、文明が崩壊する過程を描いた近未来SF映画です。

この映画で暗示される「文明を崩壊させるもの」と、コロナ危機でのそれとの構図が、見事なくらい合致する「現在進行形の世界」を予言する映画です。

そして教育に関して言えば、善人が好む「綺麗事」の問題が「2012」の核心として挙げられます。

表面だけ観ると、「2012」で文明を崩壊させたものは「大洪水」でした。

しかし、その裏側には「ヒューマニズム」こそが、文明や教育を崩壊させるものの「正体」だと暗示されています。


危険なのは、善人の持つ「良心」です。

善人とは「自分は天使」だと思っている人間であり、そのような人間の良心は「現実離れした空想」に過ぎません。

「滅びゆく世界から全員を救わないといけない」
「1人の命を救うためには、皆が犠牲になっても仕方ない」

このような「善人の良心」に基づいて、「2012」もコロナ危機に見舞われたこの世界も展開していきます。


「2012」で、注目すべき登場人物は、次の3人です。

1人目は、政府の科学チームに属するインド人の科学者です。
立場を弁えず、綺麗事ばかり言う「善人」ですが、英雄的な描かれ方をされます。

2人目は、その黒人科学者の上司にあたる大統領補佐です。
任務に忠実な現実主義者であり、「悪人」として描かれます。

3人目は、「地球は近い将来滅びる」とラジオを通して語り続けるDJで、「変人」として描かれています。

現代では、綺麗事を言う人間が「善人」として、人気を集めます。
「善人」の特徴は、綺麗事を言うだけ言って、その責任は取りません。

未来を見据えた現実的な判断を下す者は「悪人」で嫌われ役となり、真実を伝えようとする者は「変人」として黙殺されます。


コロナ危機に、終わりは見えません。

しかし、コロナウイルスがこの先どれだけ猛威を振るおうが、そんなもので教育は崩壊しません。

教育を崩壊させるものは、「善人の良心」を否定できない我々の「感性」なのです。

「子どもにはとにかく自由に育ってほしい」
「子どもの望みは何でも叶えてあげたい」
「子どもを決して叱ってはならない」
「子どもが嫌がることは何一つさせない」

過去の優れた教育を研究してきて断言できますが、これらの「善人の良心」は、過去の「馬鹿親の見本」です。

「絶対にやってはならない」と戒められてきた育て方を、現代の善人は「良心に従って」やっているのです。


「2012」で、大統領補佐がインド人科学者の「綺麗事」に、あきれて言うセリフがあります。

「全員死んでも、あんたの良心は痛まんだろ」

教育が崩壊していくこの世界で、そのセリフは次のように変換できます。

「子どもが誰の役にも立たん『甘ったれ』に育っても」

あんたの良心は痛まんだろ