大人社会と子供社会のギャップ(下)

「若い先生たちへ」「家庭の躾」の第9弾です。

前回、大人社会の原理は「役目を果たすこと」だと書きました。

「他者貢献」の大人社会を、私たちは「役目を果たすこと」で「一人前」として生きています。

「嫌な役目だからやりたくない」と駄々をこねる人間、「面倒な役目だから適当に済ませよう」とする人間は、子供社会では通じても、大人社会では生きていけません。

それが「大人社会」の厳しさですが、一方、「子供社会」にはどのような原理があるのでしょうか。


今の子供社会は「自分の役目なんか考えなくていい。やりたいことをやりたいようにやればいい」という原理で動いているように見えます。

家庭も、学校もです。

子供には、子供や学生としての「役目」も当然ありますが、「役目を果たしてから(やることをやってから)やりたいことをやれ!」などと言う、うるさい(普通の)親や先生は絶滅しました。

つまり、大人社会の原理である「役目を果たす」ことを子供に求める「厳しい教育者」がいなくなったのです。

そして、子供社会でしか通用しない「嫌なことはしなくていいよ。やりたいことだけやっていればいいよ」という「優しいサービスマン」だらけの社会になりました。


「大人社会」と「子供社会」で原理が違うのは当然です。

しかし、あまりにもそのギャップ(差)が大きいと、子供が社会人として一歩を踏み出した時、とんでもなく苦労をすることになります。

今まで「苦しいこと」はせず、「適当に済ませて」も何も言われず生きてきた人間が、突然「嫌な仕事でも自分の役目は果たせ」「頑張ったとか、どうでもいいから、結果を出せ」と言われるのです。

社会はだいぶ緩んできたとはいえ、まだ一定水準の「役目を果たす」ことへの厳しさを保っています。

しかし、子供社会は「自由にのびのび」の名の下に、これ以上はないというくらい「甘やかし」が浸透しました。

社会に適応できない若者の「激増」が社会問題にもなっていますが、そんなものは私に言わせれば、「甘やかされて育てられた人間」当然の末期です。

可哀そうですが、「育ちが悪かった」と言うしかありません。

「甘やかし」は、コロナなどよりも遥かに強烈なを子供に与える「ウイルス」だと、私は思います。

時代の緩んだ風潮から、子供を守れるのは、親や先生しかいません。

守るべきものは、「今」の安楽ではなく、子供の「将来」です。

 

 

大人社会と子供社会のギャップ(上)

前回「教育か、サービス業か」で、世の中に「教育者」がいなくなった現状を書きました。

つまり、「教育者」と一般に言われている人でも、その実体は「サービスマン」である場合がほとんどであり、子供に「サービス」する人はいても、「教育」する人がいなくなったように思います。

「教育崩壊」は、決して子供の責任ではありません。
それを支えるはずの教育者(親)が「総サービスマン化」した結果もたらされた、大人による「人災」です。

では、なぜ私たちは「サービスマン」ではなく、「教育者」でなければならないのでしょうか。

なぜ子供に「合わせる」だけの人間ではなく、子供を「高みに引き上げる」人間でなければならないのでしょうか。

今回の主題は、「大人社会」と「子供社会」のギャップです。


教育の歴史を眺めてみると、「甘い」子供社会の基準を、「厳しい」大人社会の基準に少しでも近づけようとする試みが、「現代以外」の教育史の大きな流れだったように思います。

そこに働いていた心は、「いかに子供を今の状態から引き上げるか」でした。

つまり「将来、子供が大人社会の基準に戸惑わないように」です。

だからこそ、「自分の役目を果たさせる」「苦しいことも乗り越えて成長させる」のが、親や先生の「務め」だと考えられてきました。


しかし現代では、親も先生も「今」しか見えなくなっています。

その心は「今子供に嫌なことをさせたら」「今子供に厳しいことを言ったら」、「可哀そう」です。

だから、「今、嫌なことはさせない」「今、厳しいことは言わない」のが、現代流の「良い親」「良い先生」の条件となっています。

動物は「将来」のことなど考えられず、「今」を生きるだけです。

人間は「将来」のことも考えられるはずですが、もしかしたら現代の私たちの魂は、科学技術の発展と反比例するように、「動物化」しているのかもしれません。


今回の主題は、「大人社会」と「子供社会」のギャップですが、その2つの社会の構造は全く違います。

大人社会は、「他者貢献」がその構造の原理となっています。

つまり、仕事を通して「自分の役目」を果たすことが求められ、役目を果たすことによって、自ずと他者貢献となり、報酬を貰う。

それが社会の構造です。

「こんな役目は嫌だからやりたくない!」「疲れたから今日の役目は休みます!」などの子供の論理は、大人社会では通用しません。

大人社会では通用しない「子供の論理」「可哀そうだから」と、いい年をした人間にいつまでも許す親や先生は、時代の風潮が示す通り、本当に「良い親」「良い先生」なのでしょうか。

(続く)

 

教育か、サービス業か

前回 「普通の親、普通の先生」で、「良い親」「良い先生」になろうとして、逆に「ダメな親」「ダメな先生」になっている人が多いのではないかと書きました。

「良い先生(と思われたい人)」は、子供に気に入られないといけないから、「子供の感情」が教育の「原理原則」となります。

軸が自分にある人間を「教育者」と言い、軸がお客様にある人間を「サービス業従事者」と言います。

「教育」と「サービス業」は似て非なるものですが、現代は教育関係者の多くが「サービスマン化」しているように思います。

そして、その教育者の「総サービスマン化現象」が、「教育」がここまで崩れた最も大きな原因なのかもしれません。


教育関係者の方たちは、自分のやっている仕事をどう捉えているのでしょうか。

「教育」なのか「サービス業」なのか。
どう捉えようが、それはその人の自由です。

もし自分の仕事を「サービス業」と捉えているなら、生徒はお客様です。

お客様には粗相(そそう)のないよう、不快にさせぬよう、丁寧に接する必要があります。

お客様が少々時間に遅れようが、態度が悪かろうが、お客様を叱るのは厳禁です。

生徒相手にそういう「サービス業」がしたいのであれば、それはその人の自由です。


教育か、サービス業か

一方、自分の仕事を「教育」と捉えている人でも、実体は「サービス業」というケースは多いと思います。

その仕事が「教育」なのか「サービス業」なのか、見分け方は簡単です。


誰が先に挨拶をするかです。

 

サービス業では、お客様に対し従業員が挨拶をしなければなりません。

そして、お客様が従業員に挨拶を返すかどうかは、お客様の自由です。

そういう「お客様のような生徒」が通う学校や塾は多いと思いますが、教育の基本のキである「正しい挨拶」の指導さえできないのなら、その仕事は「教育」ではなく「サービス業」です。


言葉で返事をする

コンビニやファミレスなどでは、従業員は必ず「言葉」で会話をしなければなりませんが、お客様が「言葉」を発するかどうかは、そのお客様の自由です。

先生が言葉で説明しているのに、生徒が頷いたり首を傾げるだけなら、その先生は教育者ではなく「サービス業従事者」です。

自分のしている仕事は「教育」で自分は「教育者」だと言うのなら、挨拶や「はい」という返事くらい生徒にさせないといけません。


教育サービス業!?

学習塾は「教育サービス業」というべき特殊な業界だ。
だから、塾は「そこまでしなくていい」という言い訳もできますが、これから崩壊した日本の教育を立て直すのは、我々学習塾に携わる人間たちだと私は思います。

だからこそ「サービス業」に逃げずに、堂々と「教育」の道を行くべきではないでしょうか。

 

 

普通の親、普通の先生

「若い先生たちへ」「家庭の躾」の第6弾です。

前回「躾は厳しく!~厳しさの誤解を解く~」で、躾はヒトを人にするための 親の「普通」の務め だということを書きました。

「ヒトを人に」という言葉は、私が考えたものではなく、陽明学の世界的権威であった岡田武彦が著書のタイトルに付けた言葉です。

現代の先生や親の多くは、「良い先生」「良い親」になろうとして、逆に「ダメな先生」「ダメな親」になってしまっていると感じます。

私たちは「良い先生」「良い親」になど、なろうとしては「いけない」のではないでしょうか。

「子供の将来」のために、私たちはただ「普通の先生」「普通の親」でありさえすればいいというのが、今回の主題です。


「普通」の先生や親とは、歴史的に受け継がれてきた「普通」の原理原則を持つ親(先生)です。

つまり、良いものは良い、悪いものは悪い、ダメなものはダメだとハッキリと言える親です。

「今苦しくても、それを乗り越えて成長させる」という長期的な視点を持つ人間が、「普通」の親なのだと思います。


一方、「良い先生」「良い親」になろうとすると、どうなるでしょうか。

「良い親(先生)」かどうかを評価するのは子供ですから、「良い親」であるためには、当然子供に気に入られなければなりません。

そのために「子供中心」で教育が動いていき、(教育上良くないことでも)子供がしたかったらさせる、(乗り越える必要があることでも)嫌だと言ったらやらなくてよい。

子供の顔色を気にして、言うべきことさえ言えない。

子供のやることにはなるべく口を出さず(普通の躾すらせず)、「自由にのびのび(自分勝手に)」育てばいい。

そこには、親としての「原理原則」など、どこにもありません。

これは「教育」などと言うものではなく、単なる「放任」ですが、現代では「放任する親=良い親」だと言われているのですから、「教育崩壊」も最終局面です。


「普通」の親は、自分は嫌われても「子供の将来」に必要だと信じたことをやります。

躾はその代表的なもので、「子供が将来困らないように」、だから「今は厳しいことも言う」というのが、本来の「親の愛情」のはずです。

しかし、「良い親(になりたがっている親)」は、子供が嫌がることをさせたら「良い親」ではなくなるから、嫌なことはさせられません。

それが現代流の「良い親」の正体であり、時代が変われば新しいモンスター・ペアレンツだと言われるのではないでしょうか。