規律から、自由、そして自律へ

一つの時代が終焉を迎え、新しい時代が始まろうとしています。

このことは、多くの人が感じていることだと思いますが、教育も大きく変わろうとしています。


明治時代初期に

義務教育が始まって以来、「規律」が教育のキーワードでした。

生徒は規律ある行動を求められ、規律を乱す生徒は「悪」と見なされました。

「正解」は先生が知っていて、先生の言うことをよく聞く生徒が「良い生徒」であり「優等生」だったのです。

「自分の意見」を先生にぶつける生徒は、生意気だと言って殴られた時代もありました。


敗戦後は、

規律から「自由」へと、一気に舵は切られます。

「規律」が徐々に薄まり、「自由」が段々と濃くなっていったのが、私たちの学生時代でした。

しかし学校や家庭などの「文明社会」は、「規律」で成り立っています。

この「自由な教育」の行き着いた果てに、学級崩壊や家庭崩壊が待っていたのは、当然の結末でした。

私たちは、どこで間違えたのでしょうか?


自由ではなく、自律へ。

「規律」の時代の後、「自由」ではなく、「自律」へと私たちは向かうべきだったのでしょう。

「自由」と「自律」の意味の違いを理解することは、教育の「本質」に迫ることです。

「自由」
心のままに従うこと。

「自律」
①自分の行為を主体的に規制すること。
②他からの支配、制約を受けずに、自分で立てた規範に従って行動すること。


新しい時代の教育目標は、

「自由」な子供ではなく、「自律」的な人間を育てることになります。

自分の心のまま「何をしてもよい」という「自由」な教育は、教育現場の「崩壊」を招き失敗しました。

「自由」な教育は、失敗しました。

しかし、「規律」の教育をそのまま現代に復活させるのも、時代の流れに合っていません。

先人たちも「自律」教育を求め、「規律」や「自由」教育に苦悩し、その涙の結晶である膨大な「知恵」を遺してくれました。

その知恵と涙を受け継ぎ、掛け合わせ、いよいよ「自律」の教育を生み出す時が来たのです。

 

逃れられない運命に苦悩すること ~ウインドトーカーズ~

唐津市和多田にある Oishi塾のホームページへようこそ \(^^)/

「映画で教育を語る」の第7弾です。

2002年製作の「ウインドトーカーズ」は、サイパン攻防戦を舞台に、「任務」と「友情」の狭間に苦悩するアメリカ海兵隊員を描いた戦争映画です。

興行的には大失敗をし、米軍(善玉)VS日本軍(悪玉)という単細胞的な構図に、日本人として観ていて不愉快になる場面もありました。

しかし民族の違いを越えて、現代の私たちが失った「人間的であること」がよく描かれている映画です。

平和な現代の私たちが「人間的」ではなくなり、戦争映画の主人公が人間的だというのは、文明の逆説でしょうか。


太平洋戦争末期、アメリカ海軍は先住民ナバホ族の言語を基に軍の「暗号」を作成します。

主人公のエンダーズ伍長の任務は、ナバホ族である通信兵を護衛すること。
そして、もしその通信兵が敵側の捕虜になりそうな時は、暗号の漏洩を防ぐため、彼を殺すことー。

海軍にとって大切なのは、ナバホ族の命などよりも、戦争に勝つために暗号を守ることでした。

海兵隊員であるエンダーズ伍長にとって、命令は絶対服従すべき「神」のようなものです。

役目を果たそうとすれば友を裏切り、友を殺さず暗号が敵側に漏れれば、大勢の仲間の命が危険に晒される。

任務を全うしなければならない。
友を裏切ることなどできない。

この「逃れられない運命」と、エンダーズは真正面から向き合い、懊悩し続けます。

しかし、その「逃れられない運命」と向き合っているのは、現代を生きる私たちもそうなのでしょう。

それがこの映画のテーマなのだと思います。


「子供を甘やかしてしまう」
親ならば当然だと思います。

「親の役目を果たさないといけない」
こう考えるのも親ならば当然です。

人間の親の役目は、子供に「衣食住」を与えることだけではありません。

子供を「甘やかそうとする心」と子供の「甘えを取り除こうとする心」
「優しさ」と「厳しさ」
「許し」と「叱り」

その狭間で葛藤するのが、「人間的な親(先生)」なのではないでしょうか。


子供のために「苦悩する」のが人間的な親です。
子供のために苦悩したことがないなら、その親は人間的ではありません。

現代の私たちは、何でも許す優しさを人間的だと思っています。
許さずに叱る人間、きちんと謝らせる人間は「非人間的」だと。

そういえば、「すみません」という言葉は、ほとんど教育現場から失われました。

躾と称した虐待を行う親は、非人間的です。
それと同様に、「愛」という名で甘やかし放題の親も、やはり「非人間的」なのではないでしょうか。

子供のやりたいようにさせるだけなら、苦悩などありません。
苦悩のない人間は「愛」がないのです。

今まで教育を支えてきたのは、「逃れられない運命」に苦悩する「人間的な」親や先生たちでした。

その苦悩や葛藤を回避しようとすることで、愛も失われ、教育は崩壊寸前です。

新しい時代の教育を担うのは、子供を甘やかさず、「苦悩」し続けられる親や先生たちなのです。