【人間の教育】 ~教育崩壊時代の実践教育論~

4月26日に「人間の教育」が発売されます。

このホームページを読んで下さっている方には分かると思いますが、「時代の風潮」と真っ向から対立する本です (^^)/

「現代の風潮」と「人間の教育」を弁証法的に掛け合わせたら、次の時代の教育である「自律教育」へと向かえると思います。

自由と優しさ一辺倒の「甘やかし」を「甘やかし」とも思わない教育、「崩壊」を「崩壊」とも思わない教育現場は、もはやどうすることもできません。

躾が「悪」とされ、礼儀が「悪」とされ、親と子、先生と生徒の上下関係が「悪」とされ、子供の獣性を個性として認めることが「善」とされる狂った時代です。

この狂った時代に、たった一人で、「人間の教育」をするための考え方と方法論を書きました。


時代は「子供の自主性に任せることが良い教育だ」という風潮ですが、そのことは私も否定しません。

しかし「子供が他に頼らず、自分で考え行動すること」は、守破離で言えば、破や離に当たります。

本書は、その破や離の先に来なければならない「守」について書きました。

「アクティブラーニング」や「イエナプラン」といった方法論を支える「根」の部分について、人間の教育の「土台」について書きました。

オンデマンド方式という出版の性質上、値段が若干高めになっていますが、誰も書いていない内容で、「値段以上の価値」はあると思います! 

Amazonや全国の書店で注文して頂けます。
ISBN:978-4815026097



 

父性の復権

新シリーズの「若い先生に向けた内容」の第3弾で、
今回は「父性」について掘り下げていきます。

現在の日本では「行き過ぎた母性教育」が行われており、今後「ほめる思想」に代わって「叱る思想」が必要になると、前回「叱る思想」で書きました。

河合隼雄の言葉を借りれば、「接触をもちつづけてきた母性」といかに「分離」するかの問題に我々は悩んでいます。

その「分離する力」こそが父性であり、家庭や教育現場に「父性」と「母性」のバランスを取り戻さなければなりません。

それでは、我々が取り戻すべき「父性」とは、一体どんなものでしょうか。


今まで私が読んだ様々な教育関連の本に、度々引用されてきた一冊の本があります。

東京女子大学の教授であった林道義が書いた「父性の復権」です。


その「父性の復権」において、林は父性についてこう述べています。

 

原理原則を持っていて、それを具体的場面に適用できるのが父性である


そして父性のない父親に対しては、友達のような父親」「もの分かりのいい父親」であり、「父親の役割を果たせなくなった父親」と表現しています。

つまり、継承するべき「何ものか」を持たない父親です。
「父親」を「先生」に替えても、そのまま当てはまります。

上下関係のない「友達のような先生」は、先生ではありません。
せいぜい「いい話相手」程度の存在でしょう。

「もの分かりのいい先生」も、然り。
自分の中に守るべき「原理原則」がないから、生徒を「何でも自由」にさせられるのです。

子どもに「合わせる」のではなく、子どもを原理原則に「合わせさせる」のが教育です。


スティーブン・R・コビーは、世界中で3,000万部以上発行された「史上最高のビジネス書」であり「永遠の人間学」と言われる「7つの習慣」を書き遺しました。

その中でコビーは、長期的に成功する個人や組織、家庭の条件として、「原理原則を守ること」を最重要視しています。

 

それは地球上どこでも普遍であり、時間を超えて不変であり、
つまりそれは絶対的なものである


そして「原則」の例として、「勇気」「公正さ」「誠実」「貢献」「忍耐」「犠牲」などを挙げています。

現代の我々が嫌いな「忍耐」や「犠牲」が人類の絶対に守るべき原則として紹介されていますが、もちろん間違っているのは「名著」ではなく、我々の感性です。

今の多くの日本人が行っている「父性なき母性教育」とは、要するに「原理原則」を持たない「何でもあり」の「ええじゃないか」です。

我々は、そのような人間を育てていることに、気づかねばなりません。

その「父性なき母性教育」を受けた若者たちは、自分の育てられた通りに、社会のあちこちで「ええじゃないか」を体現しているではありませんか。


詩人 茨木のり子は、「自分の感受性くらい」という有名な詩を書き遺しています。

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

 

今の躾も何もない、原理原則を持たない子どもたちを見て、何も感じなければ、その人の感性は死んでいます。

「時代がそうだから」
「周りもそうだから」
だから「しょうがない」では、感性の死人です。

詩人は、そんな「不感症」になった私たちを、こう叱りつけます。

 

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 

叱る思想

新シリーズの「若い先生に向けた内容」の第2弾です。

前回「ほめると子どもはダメになる」という本を引用しながら「叱る」を主題として書きました。

今回は、その補足で「なぜ今、『叱る』を強調することが大切なのか」、その社会的な背景について書きました。

また、日本とアメリカの違いを踏まえた上で、「これからの日本の教育は何を灯にすべきなのか」を書きました。


現在は「行き過ぎた母性社会」であり、「父性の欠如」がさまざまな教育問題に根を張っています。

京都大学の名誉教授で、文化庁長官にも就任したユング学者の河合隼雄は、「母性社会 日本の病理」でこう述べています。

人間の心の中に父性と母性という対立原理が存在し、
わが国はむしろ母性優位の心性をもつ

母性優位である日本社会に、父性優位である欧米社会で「厳しさを中和する」ために生まれた「ほめて育てる」思想が流入してきました。

元々子どもに対し甘い社会に、さらに甘い思想が入ってきたのです。

その結果、日本は世界でも珍しい「行き過ぎた母性教育=とにかく褒める=何でもゆるす」が行われています。

河合隼雄は、父性と母性の特質をそれぞれ「切る」「包含する」力であると示した上で、母性の否定的な面をこう表現しています。


子どもをかかえこみすぎて、その自立を妨げる


周りを見渡すと、誰でも思い浮かぶ顔の一つや二つはあるのではないでしょうか。


また河合は、アメリカと日本が抱えている問題を比較して、こう述べています。

アメリカは今まであまりにも「切り捨ててきた母性」をいかに取り戻すかという点で、大きい問題をもっている

アメリカは「父性」が強く「母性」が弱い社会です。

日本では今まであまりにも「接触をもちつづけてきた母性」といかに分離するかの問題に悩んでいる

アメリカと日本では、社会的な背景が「あまりにも」違います。

つまり、これからの日本の教育を考える上で、「アメリカの猿真似をしては駄目だ」ということです。

「アメリカの猿真似」とは、アメリカから入ってきた「ほめる思想」を「嬉々として受け入れた」ことも当然含まれます。

アメリカの厳しい父性社会が「ほめる思想」を必要とした一方、日本の優しい母性社会に必要なのは「叱る思想」です。


その「叱る思想」を立てる際に参考にすべきは、欧米の教育者ではなく、日本の教育者ではないでしょうか。

江戸時代の医師であり学者であった貝原益軒は、日本初の教育論の本とされる「和俗童子訓」を書き遺しています。

和俗童子訓については、また機を見て取り上げたいと思いますが、その中で語られていることは、親が「愛に溺れること」を戒め、子どもの「我を抑えること」を基としています。

親や教師は「子どもをほめるべし」とは、一行も書かれていません。

反対に、子どものわがままな心を「厳しく戒めるべし」と何度も繰り返されています。

つまり、今の教育と逆なのです。

しかし、我々の祖父母の世代までは受け継がれてきた、これらの教育こそが、日本の長い歴史で育まれた「日本人を日本人たらしめた教育」なのだと思います。

我々は、我々の祖先たちが築き上げた「歴史」や「教育」を、もっと信じなければなりません。

そこには、先人の知恵と涙が詰まっています。

それらの古い時代の知恵と涙を温めて、我々は「新しい道」を知るのではないでしょうか。

 

ほめると子どもはダメになる

新シリーズの「若い先生へ」の第1弾で、「ほめると子どもはダメになる」という本を紹介したいと思います。

やや過激に聞こえるタイトルは、猫も杓子も褒めて伸ばそうとする、「過激な」この時代へのアンチテーゼです。

2015年 新潮新書 榎本博明


かつての日本では、主として父親が父性を担い、母親が母性を担っていたが、現在は父母ともに母性的な甘さをもつようになってきた。

「ほめる指導」と「叱る指導」と、どちらが大事なのか?
「優しさ」と「厳しさ」では、どちらが大切か?

こんなことで悩む先生もいるようですが、答えは決まっています。
「両方大事」です。

一人の先生が「父性=厳しさ=叱ること」と「母性=優しさ=ゆるすこと」と、両方持たないといけません。

父性だけでは、「厳しいだけ」の先生となってしまいます。
また母性だけだと、「甘いだけ」の先生に陥ってしまいます。

そして現代は、「母性」が強く、「父性」の弱い先生(親)が圧倒的に多くなりました。

つまり「母性」は発揮しやすく、「父性」は発揮しにくい社会風潮だと言えます。

だからこそ、強い「父性」を発揮している少数の先生に価値があります。

もし「父性」「母性」という言葉を使って「良い先生(家庭)」というものを定義すれば、「父性」が強く、「母性」も強い先生(家庭)がそうだと言えます。


「ほめて育てる」が浸透してからほぼ20年が経過し、そうした空気のもとで育てられ、厳しさというものにまったく触れずに育った者が、今度は親となって子育てをする側に回り始めている。

今の20代の先生(親)たちには、ほとんど「叱られた経験がない」人も多いそうです。

充分な社会化をされないまま、社会に出てしまった人もたくさんいるでしょう。

先生(親)自身がそういう経験をしていないから、生徒(子ども)に「どのようにしたらよいか分からない」というわけです。

四書五経の四書の一つで、幾百人もの歴史的な偉人が座右の書としてきた「大学」には、それと全く同じ状況のことがこう書かれています。

 

心誠に之を求めば、中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず

 


意味が分からなければ、自分で調べて下さい。


そんな若い先生たちは、どのような態度で、子供と向かい合うべきでしょうか。


それは、「覚悟を決める」ことだと思います。

20世紀最大の詩人の一人と言われるW・H・オーデンは、その詩「見る前に跳べ」でこう叫びました。

 

私は君を愛するが
だからこそ君は跳ばなければならない

 

叱るべきときに叱ることは、技術ではありません。
従って、そこには「上手い」も「下手」も存在しません。
やり方などは、どうでもよいのです。

大切なのは、覚悟です。
子どもの社会化を促すために、一歩も退かないという覚悟。

「こいつの将来のために、今、ここで言わねばならない」という覚悟です。

やり方は、後からついてきます。
腹を括り、跳ぶだけです。

その葛藤が「涙」であり、心を鬼にして叱ることが「愛」です。

いつも笑顔で、叱るべき場面でも決して叱れない先生(親)は、「愛」の対極にいる最も卑しい人間だと、私は思います。