普通の親、普通の先生

「若い先生たちへ」「家庭の躾」の第6弾です。

前回「躾は厳しく!~厳しさの誤解を解く~」で、躾はヒトを人にするための 親の「普通」の務め だということを書きました。

「ヒトを人に」という言葉は、私が考えたものではなく、陽明学の世界的権威であった岡田武彦が著書のタイトルに付けた言葉です。

現代の先生や親の多くは、「良い先生」「良い親」になろうとして、逆に「ダメな先生」「ダメな親」になってしまっていると感じます。

私たちは「良い先生」「良い親」になど、なろうとしては「いけない」のではないでしょうか。

「子供の将来」のために、私たちはただ「普通の先生」「普通の親」でありさえすればいいというのが、今回の主題です。


「普通」の先生や親とは、歴史的に受け継がれてきた「普通」の原理原則を持つ親(先生)です。

つまり、良いものは良い、悪いものは悪い、ダメなものはダメだとハッキリと言える親です。

「今苦しくても、それを乗り越えて成長させる」という長期的な視点を持つ人間が、「普通」の親なのだと思います。


一方、「良い先生」「良い親」になろうとすると、どうなるでしょうか。

「良い親(先生)」かどうかを評価するのは子供ですから、「良い親」であるためには、当然子供に気に入られなければなりません。

そのために「子供中心」で教育が動いていき、(教育上良くないことでも)子供がしたかったらさせる、(乗り越える必要があることでも)嫌だと言ったらやらなくてよい。

子供の顔色を気にして、言うべきことさえ言えない。

子供のやることにはなるべく口を出さず(普通の躾すらせず)、「自由にのびのび(自分勝手に)」育てばいい。

そこには、親としての「原理原則」など、どこにもありません。

これは「教育」などと言うものではなく、単なる「放任」ですが、現代では「放任する親=良い親」だと言われているのですから、「教育崩壊」も最終局面です。


「普通」の親は、自分は嫌われても「子供の将来」に必要だと信じたことをやります。

躾はその代表的なもので、「子供が将来困らないように」、だから「今は厳しいことも言う」というのが、本来の「親の愛情」のはずです。

しかし、「良い親(になりたがっている親)」は、子供が嫌がることをさせたら「良い親」ではなくなるから、嫌なことはさせられません。

それが現代流の「良い親」の正体であり、時代が変われば新しいモンスター・ペアレンツだと言われるのではないでしょうか。

 

躾は厳しく!~厳しさの誤解を解く~

家庭の躾」の第5弾で、教育における「厳しさの誤解を解く」が今回の主題です。

「厳しく躾ける」というと、現代では完全に悪のイメージしかありません。

しかし、それは「厳しさ」に対する誤解が大きいように思います。

教育における「厳しさ」とは、怒鳴ることや、体罰を与えることではありません。

現代の我々は「常識」を忘れてしまっていますが、日本では昔から「いい加減を許さないこと」が、子供の躾における「厳しさ」でした


前回、森信三の「躾の三原則」を紹介しました。

一 自分から挨拶をする
二 「はい」と返事をする
三 靴を脱ぐ時踵(かかと)を揃え、席を立つ時イスを入れる

厳しく躾けるとは、いい加減な挨拶、いい加減な返事、いい加減に靴を揃えることを許さないことです。

許さないとは、いい加減な行為を見逃さず、きちんとやり直しをさせることです。

できるまで、口を酸っぱくして言い続け、やり直しをさせ続けることが「厳しい躾」です。

「いい加減」が許される「優しい躾」など、やる意味すらありません。


学習院の名誉教授であり、初等科長(小学校長)を長年務めた川嶋優氏は、「日本人として大切にしたい品格の躾け」において、次のように述べています。



子供は母親の小言で育つ

 

現代の多くの家庭の教育方針は「自由にのびのび育てる」です。

その気持ちは分かりますが、子供に教えるべきことさえ教えず、子供の間違った言動さえ正せない、現在の状況は明らかに「自由」や「のびのび」の行き過ぎではないでしょうか。

川嶋氏は、「親の小言」について続けてこう述べています。

 

(小言は)必ず心に刷り込まれ、それが宝物となって、子供の成長を助ける

 


「躾」において、我々が工夫すべき点があるとすれば、どういう態度で「いい加減を許さないか」という一点です。

現代は叱ることを「悪」だと思っている人も多いですが、怒らず冷静な態度で「いい加減を許さない」ことだって当然できます。

テーブルのイスを出しっぱなしにする子供に対して、自分でイスを入れるのは「反教育」です。

必ず子供にイスを入れさせます。
面倒くさかろうが、それが躾です。

一度言ってできるような優れた子供などそういませんから、何度も何度も出しっぱなしにしたイスを子供に入れさせます。

その時に「何度言ったら分かるつかー!?ボケーッ」と子供を殴れば体罰になります。

殴らずに、子供が反射的にイスを入れられるまで、「はい」という返事ができるまで、自分から挨拶ができるまで、言い続けます。

これが躾であり、「ヒトを人にする」ための、親の「普通の」務めなのだと思います。

しつけの3原則

こんにちは。
唐津市和多田にあるOishi塾の大石です (^^)/

今回は「躾(しつけ)の3原則」について書きます。

ニュースでは事件となった「行き過ぎた躾」ばかり取り上げられるので、「躾」というと、今の時代では「悪いもの」のような印象さえあります。

しかし、いつの時代も「躾」こそが教育の本体でしたし、それはこれからも絶対に変わりません。

躾が「悪」だという風潮こそが、「教育崩壊」「家庭崩壊」の最大の原因なのだと思います。


明治以来、最大の教育者の一人といわれる森信三は、昭和40年頃に「家庭教育における『しつけの3原則』」を提唱しました。

その3原則とは、次の通りです。
1 自分から挨拶をする
2 「はい」と返事をする(頷くだけはダメ)
3 靴を脱ぐ時踵(かかと)を揃え、席を立つ時イスを入れる

学生時代が社会人として活躍する準備期間だとすれば、社会人として最低限のマナーであるこれら3つは厳しく(いい加減を許さず)身につけさせないといけません。

一昔前までは、それが親や先生の「愛情」だとされてきました。
愛情の薄い無責任な人間は「いい加減な躾しかできない」。


そして、教育の目的が「自立」だとすれば、その「種」を今のうちから蒔いておかなければなりません。

森信三は、上記の「しつけの3原則」に加え、次のことを推奨しています。

〇朝、親に起こされずに、自分で起きること
〇寝具の片づけ(ベッドの整え)を自分ですること

いい年をして、母親に起こしてもらわないと起きられない人間を「甘ったれ」と言い、親がその状況を許していることを「甘やかし」と言います。

子供が「自分で起きて立つ」という自立を妨げているのですから、「甘やかし」は反教育であり、子供の将来にとって「良いもの」なわけがありません。


私なりに「今の子供」という視点でもう一つ「躾」を加えたいと思います。

自分のことを呼ぶ時に「名前」で呼ばず「私」と呼ぶ

これは女子に対する躾ですが、自分を「名前」で呼んでいいのは、「幼稚園児や保育園児だけ」だというのが世の常識でした。

しかし今は世の中が狂っているので「唐津の女子中学生の8割以上」は自分のことを「名前」で呼びます。

その幼児性を何とも思わない、親や先生の精神性こそが「教育問題の一番の核心」なのかもしれません。

 

 

「今、優しい」悪の教え ~ショコラ~

映画で教育を語る」の第6弾です。

2000年製作の「ショコラ」は、「伝統」が「ヒューマニズム」によって破壊されていく過程を描いたヒューマンドラマです。

現代の映画では当然のごとく、伝統を「破壊するもの=善」、「破壊を止めようとするもの=悪」という構図で描かれています。

我々教育関係者にとって、「リトマス紙」となる映画ではないでしょうか。

ショコラを観て「心温まる良い映画だ」などと言う人間は、時代に流される「根無し草」で「教育の破壊者」です。

ヒューマニズムがいかに社会に入り込み、人々の心を侵食してきたか。 そして、日本の教育が崩れた原因も、この映画から推察できます。


1959年、フランスの小さな村。

そこに流れ者の母娘が辿り着く。
親子はその地に、村人が今まで見たことのなかった「チョコレートショップ」を開く。

村の掟を無視する「自由」な母親。
村の秩序を守らねばならない村長。
甘いチョコレートに堕ちていく村人たち。

美しい母親は「古い因習に縛られていた村人」の「心を解き放った」善人として描かれます。 しかし、恐らく彼女は「悪魔の化身」です。


「ブスな悪魔は存在しない」と言われているように、母親は若く魅力的な外見をしています。

そして悪魔の餌である甘い物として、「優しさ」と「チョコレート」が用意されています。

一目見ただけで「悪」だと分かるようなマヌケな「悪魔」は存在しません。

必ず「善の仮面」を被って、「甘い餌」をぶら下げ、人々の弱みにつけこみ、餌に食らいつかせます。

厳しい掟の下に生きる村人にとって、甘い餌とは「自由」でした。
チョコレートは「自由」の象徴です。

母親に感化された村人たちは、「伝統に従わない自由」を手に入れ、堕落しました。

その堕落のことを、現代の我々は「古い因習からの解放」や「ヒューマニズム」と呼んでいますが、それが行き過ぎたのが「何でもありの自由」に歯止めのきかない現在の日本です。


我々は「悪を見分ける目」を持たなければなりません。

悪の教えとは、「先に行けば行くほど、苦しくなる教え」です。
正しい教えとは、「先に行けば行くほど、楽になる教え」です。

子どもを「甘やかす」のは、悪の教えです。
「子どもが嫌がるから、厳しいことは言わない」
「身体がきついと言っているので、休ませる」 。

「今」の楽や平和を選んで、子どもの躾を放棄してはいけません。
躾を放棄された子どもが、「将来」どんな苦労をするのかは、分かるはずです。

正しい教えは、「今、厳しい」が、後で楽になります。
悪の教えは、「今、優しい」が、後で苦しみます。

良薬は口に苦し。
悪魔が差し出す目先の「甘いチョコレート」に騙されてはいけません。

優しさを支えるもの ~遠い空の向こうに~

「映画で教育を語る」の第5弾です。

1999年製作の「遠い空の向こうに」は、「ロケットを打ち上げたい」という夢を抱いた、炭鉱の町に住む高校生たちの物語です。

その成功までの「失敗」「恥辱」「確執」「挫折」を描く「実話に基づいた」青春映画です。

原題は「October Sky」。

少年達の運命を決めた日、人類初の人工衛星「スプートニク」を見た「10月の空」から付けられています。

20代女性の「優しい」ライリー先生が、その「夢の実現」に大きな役割を担いますが、現代の日本の教育との「違い」を考える上で、とても興味深いです。


今回の主題は、「優しさを支えるもの」です。

ライリーは「現代的な良い先生」で「新世代」の象徴として登場します。

その特徴は「いつも笑顔で」「生徒想い」、そして「因習にとらわれない」ことです。

一方、主人公の父親や校長が「旧世代」の象徴であり、「厳しく」「融通のきかない」「時代遅れ」の悪役となっています。

この新世代と旧世代の「善」「悪」の構図は、現代社会そのままです。

そして、旧世代の象徴である「厳しさ」を時代遅れの「悪」と見なし、「優しさ」のみを「善」だとするのも、日本が歩んできた道と全く同じです。


現代の「良い先生」は、「自分を支えてくれるもの」を見ようとも、知ろうともしません。

「遠い空の向こうに」の舞台は、1950年代のウェストバージニア州の田舎町です。

そこには厳格で「絶対的な権威」を持った校長先生がおり、父親がいました。

教育現場が「厳しさ」で覆われている時代だったから、ライリーのような「優しい先生」が「良い先生」になり得たのです。

しかし、2020年の日本で、この女性教師の真似をしても「良い先生」にはなれません。

なぜなら、教育現場が「優しさ」に「まみれている」からです。


「優しさ」しかない場所では、「優しさ」はもはや「優しさ」ではありません。

「その他大勢」の先生が行う「当たり前」の「ありふれた行為」に過ぎません。

多くの「厳しい先生」や「厳しい親」がいたから、「優しい先生」にも価値があったのだと、我々は知る必要があります。

「優しさ」を支えるものは、「厳しさ」です。

現代流の「何でも許す良い先生」を支えているのは、嫌われ役を厭わない「悪人」になれる親や先生達です。

彼らが「教育の崩壊」をギリギリの所で支えています。

「優しさだけの先生」など、汚れ役を他人に任せ、自分は平気で「善人面」をしていられる卑怯者に過ぎません。

我々は、目を覚まさなければなりません。
「支えられるもの」ではなく、「支えるもの」になるのです。