倚(よ)りかからず

「家庭の躾」の第14弾です。

前回 心身未分離の子供の躾として「腰骨を立てる」ことで、「心を整える」ことの重要性を書きました。

つまり「勉強がだるい」のは、そんな姿勢を取っている「自分がだるい人間」だということです。

勉強に対する「向き合い方」=「だるそうな姿勢」を正さない限り、勉強が面白くなることは一生ありません。

姿勢を正すとは、「腰骨を立てた姿勢」で勉強することで、その姿勢で勉強することが「当たり前」になることです。

今回の主題は、子供を「一人立ち」させるための「躾」についてです。


私は現状で、「日本の教育はほとんど崩壊している」と思っています。

このような状況下でも、教育の「最低目標」としては「子供の自立」ではないでしょうか。

つまり「いつまでも親のスネをかじらず」、子供が「一人立ち」して生きていくことです。

「ニート」や「引きこもり」を次々と生み出す、これまでの「甘やかしを甘やかしとも思わない教育」は「間違いだった」、と認めることから「新たな建築」が始まると思います。

その流れが来るのは「早くて数年先」のことだと思いますが、さしあたって、子供が将来「一人立ちできるようになる」ための「家庭の躾」を書きます。

「国民教育の父」と呼ばれる森信三の教えの「背骨」となるもので、それが「腰骨を立てる」ことなのです。


引きこもりやニートになる人で「腰骨を立てる」人間は、一人もいないと思います。

「腰骨を立てる」というのは「自分で自分を支える」ということです。

「自分で自分を支える」精神を持った人間が、何かに「もたれて」生きることは、「誇り」が許さないでしょう。

「腰骨を立てる」とは、人生に「正しく向き合う姿勢を育てる」ことだ、と言えます。

一方、イスにもたれないと疲れる人間は、「親」「友人」「会社」「国」にも、もたれます。

そうする方が「本人にとって楽」だからですが、そういう「もたれる人間」に限って、「自分を支えてくれるもの」に不満を持つものです。

たかが「姿勢」、たかが「イスの座り方」ですが、ここには大きな真実が潜んでいると、私は思います。


詩人 茨木のり子は、73才の時に「倚(よ)りかからず」という詩を書きました。

 

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない

ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい

じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば

それは
椅子の背もたれだけ

 

詩人は「椅子に倚りかかる」ことを、私とは逆の意味で使っています。

何ものにも倚りかからず生きようとした詩人だから、「椅子にだけ」は倚りかかってもいいと思ったのでしょうか。

あらゆるものに「倚りかかっている」子供たちは、少しずつ、「自分で自分を支えて」生きなければなりません。

その最初の第一歩が、椅子に倚りかからず、「腰骨を立てる」ことなのです。

腰骨を立てる

「家庭の躾」の第13弾です。

前々回「育ちの良い子供、悪い子供」で、「やるべきことをやる気が出ないからできない」という子供は、「育ちが悪い」と書きました。

また前回「家庭学習を習慣化するための具体的手順」で、「勉強すること」を、やる気に関係のない「生活習慣」とする手順を書きました。

今回は「勉強のやる気が出ない」「家庭学習が続かない」といった子供に、効果抜群の方法を書きます。

明治以来、最大の教育者の一人とされる森信三の「躾の三原則」は、何度もこのページで取り上げてきました。

その「躾の三原則」には含まれていませんが、森が「教育の要諦」とまで言った「家庭の躾」の根幹が、今回の主題となります。


「国民教育の父」と言われる森が、「自分がここまで来れたのは・・・」と述べた文章が、森信三全集に収められています。

 


腰骨を立て続けたおかげだ

 

私はこの言葉に出合った時、驚きました。

日本の教育史に残る偉人を作り上げた根本が、「学問」ではなく、「腰骨を立てる」ことだと言っているのです。

森の人生は、自伝を読む限り苦難に満ちたものでしたが、70才頃の写真を見ると、その立ち姿の爽やかさ、美しさに見惚れてしまいます。

「腰骨を立てる」ことで、一本芯の通った「貫く」生き方ができると、森は述べたかったのではないでしょうか。


学習に関しても、「腰骨を立てる」ことで、「理解力」や「集中力」が増すと、森は述べています。

また、その多くの門下生によって「立腰教育」が実践され、その効果が実証されています。

「心身未分離」の子供にとって、「心を整える」ためには、「姿勢を整える」ことから始めなければなりません。

つまり、肘をつき腰をグニャッと曲げて、ダルそうな姿勢で勉強するから、勉強がダルく感じるのです。

そんな子供に「やる気云々」の話をしても無駄です。
ダルそうな姿勢を取り続ける限り、その子にとって勉強は一生「ダルいもの」であり続けます。

まずは「腰骨を立てて勉強する」ことから、指導を始めるべきです。

 

 

 

 

 

躾の大原則とは

「若い先生たちへ」「家庭の躾」の第10弾です。

前々回、前回と「大人社会と子供社会のギャップ(上)(下)」で、それらの社会に働く「原理の違い」について書きました。

「自分のやりたいことをやっていればいい」優しい「子供社会」に対して、「役目を果たす」ことを求められる厳しい「大人社会」という構図でした。

将来、子供が「一人前の社会人」として活躍できるような教育が「普通の教育」で、子供が大人社会に適応できない教育「反教育」だと、そろそろ私たちは気づかなければなりません。

その「反教育」の代表が、今、猛威を振るう「甘やかし」です。

「甘やかし」とは、厳しい「大人社会」の原理に子供を近づけようとせず、甘い「子供社会」のルールをいつまでも許すことです。

そういう「甘い親」「甘い先生」が、現代では「良い親」「良い先生」とされていますが、社会人になるまで「甘い子供社会のルール」で育てられた人間は、その後「厳しい大人社会」をどう生きていくでしょうか。


これまで何度も取り上げてきた、教育者 森信三が提唱した躾の三原則は次の通りです。

一 自分から挨拶をする
二 「はい」と返事をする
三 靴を脱ぐ時踵(かかと)を揃え、席を立つ時イスを入れる

その他にも、森は「朝、親に起こされずに、自分で起きる」ことも大切な躾だと考えていました。

また令和の女子の躾として、私は「自分のことを呼ぶ時、名前で呼ばず私と呼ぶ」も加えたいと思います。

他にも「躾」を細かく分類すれば何十~何百にもなりますが、何十~何百もある「躾」というのは、「実際的」ではありません。

今回は、それらの「躾」をすべて包括し、すべての土台となる最も重要な原則について書きます。

その最も重要な原則は、「大人社会」と「子供社会」を繋ぐとなるものでもあり、50年以上前までの日本では「常識」とされていました。


 


「やるべきこと」が先。「やりたいこと」は後。

 

これが子供の「躾」における最も重要な原則であり、すべての「躾」の原則は、この大原則が淵源となっています。

また、この大原則は、社会人としての原則でもあります。

「大人社会」の原理である「役目を果たす」とは、自分の「やりたいこと」よりも、「やるべきこと」を優先することです。

「大人社会」にそういう原理が働いている以上、その準備期間である「子供社会」も「やるべきことが先。やりたいことは後」に近づけ、そういう思考習慣を身につけさせた方が、子供は将来「楽」に生きられます。

要するに「甘やかし」とは、子供が「やること」もやらずに、「やりたいこと」だけやるのを「許す」ことです。

昔の「親の小言」を、令和の子供にも言ってやりましょう。

 

 

やることをやってから、
やりたいことをやれ!
と。

 

大人社会と子供社会のギャップ(上)

前回「教育か、サービス業か」で、世の中に「教育者」がいなくなった現状を書きました。

つまり、「教育者」と一般に言われている人でも、その実体は「サービスマン」である場合がほとんどであり、子供に「サービス」する人はいても、「教育」する人がいなくなったように思います。

「教育崩壊」は、決して子供の責任ではありません。
それを支えるはずの教育者(親)が「総サービスマン化」した結果もたらされた、大人による「人災」です。

では、なぜ私たちは「サービスマン」ではなく、「教育者」でなければならないのでしょうか。

なぜ子供に「合わせる」だけの人間ではなく、子供を「高みに引き上げる」人間でなければならないのでしょうか。

今回の主題は、「大人社会」と「子供社会」のギャップです。


教育の歴史を眺めてみると、「甘い」子供社会の基準を、「厳しい」大人社会の基準に少しでも近づけようとする試みが、「現代以外」の教育史の大きな流れだったように思います。

そこに働いていた心は、「いかに子供を今の状態から引き上げるか」でした。

つまり「将来、子供が大人社会の基準に戸惑わないように」です。

だからこそ、「自分の役目を果たさせる」「苦しいことも乗り越えて成長させる」のが、親や先生の「務め」だと考えられてきました。


しかし現代では、親も先生も「今」しか見えなくなっています。

その心は「今子供に嫌なことをさせたら」「今子供に厳しいことを言ったら」、「可哀そう」です。

だから、「今、嫌なことはさせない」「今、厳しいことは言わない」のが、現代流の「良い親」「良い先生」の条件となっています。

動物は「将来」のことなど考えられず、「今」を生きるだけです。

人間は「将来」のことも考えられるはずですが、もしかしたら現代の私たちの魂は、科学技術の発展と反比例するように、「動物化」しているのかもしれません。


今回の主題は、「大人社会」と「子供社会」のギャップですが、その2つの社会の構造は全く違います。

大人社会は、「他者貢献」がその構造の原理となっています。

つまり、仕事を通して「自分の役目」を果たすことが求められ、役目を果たすことによって、自ずと他者貢献となり、報酬を貰う。

それが社会の構造です。

「こんな役目は嫌だからやりたくない!」「疲れたから今日の役目は休みます!」などの子供の論理は、大人社会では通用しません。

大人社会では通用しない「子供の論理」「可哀そうだから」と、いい年をした人間にいつまでも許す親や先生は、時代の風潮が示す通り、本当に「良い親」「良い先生」なのでしょうか。

(続く)

 

教育か、サービス業か

前回 「普通の親、普通の先生」で、「良い親」「良い先生」になろうとして、逆に「ダメな親」「ダメな先生」になっている人が多いのではないかと書きました。

「良い先生(と思われたい人)」は、子供に気に入られないといけないから、「子供の感情」が教育の「原理原則」となります。

軸が自分にある人間を「教育者」と言い、軸がお客様にある人間を「サービス業従事者」と言います。

「教育」と「サービス業」は似て非なるものですが、現代は教育関係者の多くが「サービスマン化」しているように思います。

そして、その教育者の「総サービスマン化現象」が、「教育」がここまで崩れた最も大きな原因なのかもしれません。


教育関係者の方たちは、自分のやっている仕事をどう捉えているのでしょうか。

「教育」なのか「サービス業」なのか。
どう捉えようが、それはその人の自由です。

もし自分の仕事を「サービス業」と捉えているなら、生徒はお客様です。

お客様には粗相(そそう)のないよう、不快にさせぬよう、丁寧に接する必要があります。

お客様が少々時間に遅れようが、態度が悪かろうが、お客様を叱るのは厳禁です。

生徒相手にそういう「サービス業」がしたいのであれば、それはその人の自由です。


教育か、サービス業か

一方、自分の仕事を「教育」と捉えている人でも、実体は「サービス業」というケースは多いと思います。

その仕事が「教育」なのか「サービス業」なのか、見分け方は簡単です。


誰が先に挨拶をするかです。

 

サービス業では、お客様に対し従業員が挨拶をしなければなりません。

そして、お客様が従業員に挨拶を返すかどうかは、お客様の自由です。

そういう「お客様のような生徒」が通う学校や塾は多いと思いますが、教育の基本のキである「正しい挨拶」の指導さえできないのなら、その仕事は「教育」ではなく「サービス業」です。


言葉で返事をする

コンビニやファミレスなどでは、従業員は必ず「言葉」で会話をしなければなりませんが、お客様が「言葉」を発するかどうかは、そのお客様の自由です。

先生が言葉で説明しているのに、生徒が頷いたり首を傾げるだけなら、その先生は教育者ではなく「サービス業従事者」です。

自分のしている仕事は「教育」で自分は「教育者」だと言うのなら、挨拶や「はい」という返事くらい生徒にさせないといけません。


教育サービス業!?

学習塾は「教育サービス業」というべき特殊な業界だ。
だから、塾は「そこまでしなくていい」という言い訳もできますが、これから崩壊した日本の教育を立て直すのは、我々学習塾に携わる人間たちだと私は思います。

だからこそ「サービス業」に逃げずに、堂々と「教育」の道を行くべきではないでしょうか。