大人社会と子供社会のギャップ(上)

前回「教育か、サービス業か」で、世の中に「教育者」がいなくなった現状を書きました。

つまり、「教育者」と一般に言われている人でも、その実体は「サービスマン」である場合がほとんどであり、子供に「サービス」する人はいても、「教育」する人がいなくなったように思います。

「教育崩壊」は、決して子供の責任ではありません。
それを支えるはずの教育者(親)が「総サービスマン化」した結果もたらされた、大人による「人災」です。

では、なぜ私たちは「サービスマン」ではなく、「教育者」でなければならないのでしょうか。

なぜ子供に「合わせる」だけの人間ではなく、子供を「高みに引き上げる」人間でなければならないのでしょうか。

今回の主題は、「大人社会」と「子供社会」のギャップです。


教育の歴史を眺めてみると、「甘い」子供社会の基準を、「厳しい」大人社会の基準に少しでも近づけようとする試みが、「現代以外」の教育史の大きな流れだったように思います。

そこに働いていた心は、「いかに子供を今の状態から引き上げるか」でした。

つまり「将来、子供が大人社会の基準に戸惑わないように」です。

だからこそ、「自分の役目を果たさせる」「苦しいことも乗り越えて成長させる」のが、親や先生の「務め」だと考えられてきました。


しかし現代では、親も先生も「今」しか見えなくなっています。

その心は「今子供に嫌なことをさせたら」「今子供に厳しいことを言ったら」、「可哀そう」です。

だから、「今、嫌なことはさせない」「今、厳しいことは言わない」のが、現代流の「良い親」「良い先生」の条件となっています。

動物は「将来」のことなど考えられず、「今」を生きるだけです。

人間は「将来」のことも考えられるはずですが、もしかしたら現代の私たちの魂は、科学技術の発展と反比例するように、「動物化」しているのかもしれません。


今回の主題は、「大人社会」と「子供社会」のギャップですが、その2つの社会の構造は全く違います。

大人社会は、「他者貢献」がその構造の原理となっています。

つまり、仕事を通して「自分の役目」を果たすことが求められ、役目を果たすことによって、自ずと他者貢献となり、報酬を貰う。

それが社会の構造です。

「こんな役目は嫌だからやりたくない!」「疲れたから今日の役目は休みます!」などの子供の論理は、大人社会では通用しません。

大人社会では通用しない「子供の論理」「可哀そうだから」と、いい年をした人間にいつまでも許す親や先生は、時代の風潮が示す通り、本当に「良い親」「良い先生」なのでしょうか。

(続く)

 

悪人の名誉

「若い先生たちへ」の第5弾です。

7都府県に「緊急事態宣言」が発令されましが、コロナウイルスの猛威はとどまるところを知りません。

ヒューマニズムから生まれた「善人思想」がコロナ危機を加速させていますが、今後、医療崩壊、経済崩壊なども不安視されています。

そして、「教育崩壊」はコロナ危機のずっと前から進行中であり、既に崩壊の末期です。

崩壊の過程にいる我々は、周りも全部そうなので「おかしい」と思いませんが、一昔前の人間が今の教育現場を見たら間違いなく卒倒します。

前回に引き続き、今回の主題も「善人と悪人」についてです。
「悪人でなければ教育はできない」「我々は悪人にならなければならない」ということを伝えたくて、この文章を書きます。


三島由紀夫は、その絶筆となった「豊饒の海」という四部作を書き遺しています。

その登場人物として「嫌な奴」や「変な奴」ばかりが出てきて、「悪人の文学」とも呼べそうですが、その「嫌な変な奴」が我々自身です。

その悪人は、我々です。
しかし、善人はそう思いません。
遠くから、他人事のように、その登場人物を眺めています。

日本最高の文学者の一人である三島由紀夫は、我々などが想像もつかないほど、感受性が豊かな人間であったと推察できます。

それは、自分の中の「悪」に対してもです。
我々は、神や仏ではないのだから「悪」に決まっています。

悪人は自分の悪を自覚している人間であり、善人は自分の悪に対して「鈍感」な人間と言えるのではないでしょうか。


「歎異抄」は、浄土真宗の開祖である親鸞の教えを、弟子の唯円が纏(まと)めたものです。

その第三条の冒頭に、有名な次の一節があります。

 

善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや


善人でさえ往生(極楽に生まれること)できる

悪人なら尚更である

 

善人とは自分が何者かさえ分かっていない「馬鹿者」のことで、
弁えのない人間とも言えます。

そのようなことが、日本で最も読み継がれてきた仏教書である「歎異抄」に書かれているのです。


親鸞は「南無阿弥陀仏」を唱えれば、善でも悪でも往生できると言いますが、そんなことはどうだっていいのです。

極楽へ行こうが地獄に堕ちようが、我々は「自分の務めを果たす」だけです。

悪人になり、子どもを甘やかさずしっかり育て、堂々と地獄に堕ちる。

一億総甘やかしの時代に、「甘やかさずに育てる」ことは、至難のわざかもしれません。

時代の風潮に逆らって生きるとは、逆風が吹き荒れる「茨の道」を歩むことです。

仲間もいない、助けもない、誰にも認められない。

綺麗な花が咲く天国ではなく、地獄を往くのです。


中世イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリは、「神曲」の地獄篇 第三歌に次の言葉を遺しています。

 

地獄には地獄の名誉がある

 

天国や極楽にいては、決して果たせぬ仕事をするのです。
周りの善人など、どうでもよい。

自分に与えられた地獄で、たった1人で、務めを果たす。

それが地獄に生きる悪人の名誉なのです。

 

善人が子どもに悪を為す

若い先生に向けた内容の第4弾です。

今年の高校入試が終わりましたが、受験では、「合格者」と「不合格者」が出ます。

その不合格者に対して、私たちは「愛情」を持った「教育的」な関わり方をしているでしょうか。

今回は合格発表後の「不合格者への関わり方」をテーマに、現代の教育の問題点を考えたいと思います。


現代の風潮は、私たちに次のことを要求します。

私たちは、不合格だった子どもの気持ちを慮り、頑張ったことを労(ねぎら)わないと「いけない」

傷ついている子どもの心を察して、その傷口が広がらないように、できるだけ優しく接しないと「いけない」

「いけない」と2度繰り返しましたが、文字通り、時代の空気は「MUST=そうしないといけない」です。

その空気に従順なのが「善人」であり、現代流の「良い親」「良い先生」です。
そして、そういった善人たちが、子どもに「悪」を為します。

もちろん、本人たちにそんな「つもり」は毛頭ないでしょうが、結果的には、子どもの体内に蓄積する「甘い毒」となります。


多くの生徒が合格した中で、不合格だったということは、その生徒自身が「甘ったれ」だったのです。

不合格の原因は、「能力の不足」ではありません。
「能力の不足」なら、最初の志望校選びが間違っていたことになります。

そうでは、ないのです。

不合格だった生徒は、合格した生徒よりも、何か足りないものがあり、それを補う努力が欠けていたのです。

つまり「やるべきこと」をやっておらず、「合格するための必死さ」に欠けていたということです。

要するに、その生徒は望みだけが高く、自分に厳しくできない「甘ったれ」だったのです。


挫折こそ、成長の最大の好機です。

私たちの務めは、受験に失敗した子どもに「甘くて弱い自分」を「直視」させることです。

泣こうが、傷つこうが、その情けない姿が「裸の自分自身」です。
見たくないものを、直視させるのです。

彼らに必要なのは、優しい慰めの言葉ではなく、「現実と真正面から向き合わせる」厳しい愛の言葉です。

その厳しさこそが、「教育」ではないでしょうか。


今こんなことを書けば、悪人です。
だから、他者の評価を気にする「善人」には、口が裂けても言えません。

しかし、私もすべての生徒に、これらのことを言えるわけではありません。
愛していない生徒には、言えません。

厳しいことを伝えるには、膨大なエネルギーを必要とします。
甘い言葉の何十倍ものエネルギーが要るのです。

その「面倒なこと」を乗り越える力が愛情ですが、「そこまで言わなくていいか」という悪魔の囁き負けることがあります。


そんな私が「真実だ」と100%確信していることがあります。

我々が「愛」だと思っている「厳しさのない優しさ」は、悪魔が吐き出す甘い毒です。

その毒を吸い過ぎた子どもは、一生甘ったれから抜け出すことはできません。

子どもを「弱い甘ったれ」のままにしておく「現代の教育の正体」に、そろそろ私たちも気づくべきではないでしょうか。

 

善の仮面を被る者たち ~フィフスウェイブ~

新企画の「映画で教育を語る」の第1弾です。

「フィフスウェイブ」は2016年製作の近未来サスペンス映画ですが、私はそのストーリーに「現代の日本」を感じ、背筋が凍る思いがしました。


~あらすじ~

ある日、地球上空に巨大な宇宙船が現れる。

謎の知的生命体「アザーズ」は地球に4度の攻撃をしかけ、それにより人類の99%が死滅した。

第1波で「電子機器」を破壊され、第2波の「地震と巨大津波」で都市を破壊された。

第3波の毒性を強めた「鳥インフルエンザ」にほとんどの人間が感染し、第4波でアザーズが人間へ「寄生」した。

そして、生き残った人類に対しての「第5波」が始まる・・・。


真の恐怖は、アザーズと人間の「区別がつかない」ことです。
彼らも人間の姿をしています。

つまり、自分の隣にいる人間が「敵か味方」なのか分からず、誰を信じればよいのかも分かりません。

厄介なことに、人間の姿をした敵は「善の仮面」を被っています。
「信頼できそうな」言葉を口にするのです。

まさに、これは「現在進行形」で、日本で起こっていることではないでしょうか。


現代のアザーズは、マスコミやテレビに出てくる「教育評論家」たちです。

彼らは善人面をして、「子どものため」だとか「自己肯定感が大切」だとか、甘くて優しい「正しそう」な
言葉を口にします。

彼らが撒き散らしているウイルスが「ほめる思想」であり「甘やかし思想」です。

本やテレビを通して、そのウイルスに感染した親や教師、塾講師たちは、今度は周りの子どもたちにそのウイルスを撒き散らしています

今や日本人のほとんどは、この「甘やかしウイルス」の感染者です。


甘やかしは、子どもを駄目にする虐待です。
虐待とは、暴力だけではありません。

「そんな馬鹿な」と思うでしょうか。
しかし、歴史を愛する私から見れば、現代の教育はもはや歴史的「非常識」です。

コロナウイルスと違い、精神的ウイルスはその「危険度」が分かりづらいです。

何が正しいのかは、自分が学び、判断するしかありません。